1366年キルケニー法が制定され、ダブリンを中心とする東海岸地方を柵で囲って英国州とし、残りは放棄してアイルランド人と英国人を隔離しようとしました。また、アングロ・ノルマン植民者に対してゲール語の使用や愛国人との結婚を禁じました。しかしゲール側の勢力はますます強くなり、15世紀には英国支配地域はさらに縮小していきました。
英国は実際には赴任しない王代理制度を設け、名目だけの王権を保持し事実上は愛国人伯爵が総督として統治していました、が、英国と愛国の関係の変化につれ戦略的な重要性を帯びてきました。再び愛国支配を確立したチューダ朝のヘンリー7世は愛国人総督を寵免し、新たに新総督を英国から派遣、植民者と土着の愛国人の引き離しの方針から一転し、ゲール文化や生活習慣を否定し、全島を英国化していく方針に変えていきました。
17世紀英国とスコットランドの反乱やチャールズ1世の議会との対立は、植民で土地や財産を没収された者たちにとって勢力回復の機会になりました。また土地を没収され、カソリック信仰を制限された愛国人の不満も爆発。ついに1641年政府に反乱を起こしました。
反乱はアルスター銭気に広がり、数千の英国系プロテスタント移入者が惨殺され、更に全土に社会不安を巻き起こしました。これを鎮圧する英国でも翌年国王軍と議会の間の市民革命が起り、以後数年ピューリタン革命期には2つの島の間で複雑な戦争が続きました。この間数回にわたりプロテスタント側とカソリック側に交渉が持たれていたが、1649年チャールズ1世を処刑し、王制を廃止して英国共和国を樹立させたクロムウェルはカソリック反徒と王政派の軍隊が占領している愛国へ軍隊を進めました。絶対王政に対する仕上げと1641年のプロテスタント虐殺の報復を意図するクロムウェル率いる1万2千の遠征軍に対し愛国は長い内乱の後もはやなすすべもなくなりました。この時ドロエダやウェックスフォードなど各地で情け容赦ない虐殺と大規模な土地の没収が行われ、カソリック領主は西部の貧しい土地へ追放されました。これにより愛国の土地の大部分がプロテスタントの所有するところとなり、ここに英国の愛国支配は確立されました。
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